会員通信

おけいの墓・・・日本人女性初の米国移民の数奇な運命との出会い

作者:SAM日本チャプター会員 伊藤芳康

『おけいの墓』という題名に驚く方もいると思いますが、私はこの一節に突然に接してとても驚愕したのです。それもよりによって福島県会津若松市を観光で訪れた時に、同市の観光案内所で『おけいの墓』というパンフレットを見つけ、雷に打たれたように瞠目結舌してその場に立ちつくしてしまったのです。なぜこんなに驚愕したかをこれから記します。

私は小学3年生から中学1年生まで、父の商社関係の仕事でアメリカのカリフォルニア州サンフランシスコ市で5年弱過ごしました。1960年代初頭の1ドルが360円の時代だったので、まだまだ日本からの駐在員は外務省関係・商社関係・大手銀行関係に限られており、それぞれ会社ごとにお互いに肩を寄せ合って過ごしていました。そのような背景から父の会社の駐在員は自分の家族をつれて全員一緒に、少なくとも年に一回、それぞれ家族ごとに車を運転して一週間くらいの旅行をする事を習わしとしておりました。私も家族5人で父が運転する典型的なアメ車の代表的存在であるフォード・ギャラクシー1961年製に乗り込んで色々な名所旧跡を訪れました。

ある旅行でカリフォルニア州とネバダ州の境にある美しいタホ湖、そしてラスベガスに次ぐカジノのメッカであるネバダ州リノ市や西部劇の町そのままのカーソン・シティを訪れました。タホ湖へ行く途中、ワインの産地として一世を風靡することになるナパ・バレーを通過して、エル・ドラド(黄金郷)郡のゴールド・ヒル(黄金丘)という、いかにもカリフォルニア・ゴールドラッシュの名残そのままのような名称の場所に立ち寄りました。実は、その場所は現地の日本人にはとても有名な場所だったのです。そこには数名の墓所があり、その中の一つには『OKEI』と記してあり、日本語で「おけいの墓 日本人女性初米国移民」となっていたのです。両親を含む大人たちが皆、丁重にお参りしている姿が記憶に残っておりました。但し、幼かった私には意味がほとんど分からなかったので、それは単純につまらなかったという記憶でしかありませんでした。

その後、忘却の彼方にあり、半世紀近くにわたり全く忘れていた『おけいの墓』という一節をよりによって会津若松の観光案内で見つけたのです。いきなり記憶が稲妻のごとく蘇り、まさか、もしかしてあのゴールド・ヒルの「おけいの墓」と関連があるのではないか。いや、そのようなことはありえない、全く関係ないお墓だろうと思いました。なぜかというとゴールド・ヒルと会津若松が結びつかなかったからです。しかし、さすがに記憶が蘇ってしまい、とても気になり、その後、ウィキペディアで調べました。その結果、文字通り瞠目結舌してしまったのは当然であるという事実にたどり着いたのでした。

江戸時代末期、『伊藤 おけい』という町娘が会津の材木町に住んでいました。大工の伊藤文吉とお菊の長女です。会津藩は戊辰の役に備え、ドイツ人のジョン・ヘンリー・スネル氏を軍事顧問に招聘しました。藩主松平容保より日本名の『平松武兵衛』が与えられ、近くに屋敷も提供されました。日本人女性と結婚し子供が生まれたので、近くに住む『伊藤 おけい』を子守りとして雇ったそうです。残念ながら、その日本人女性の名も子供も詳細不明です。

会津藩は薩長軍によって壊滅的損害を受け敗戦し、その後における過酷な試練が待ち受けていました。従来人間の住むところではないとされた斗南へ大半の会津藩の藩士の人々は移住を強要され、さらに北海道開拓の屯田兵などに徴集されました。私は札幌に駐在していた頃、全道を仕事やプライベートで訪れましたが、稚内の方面や網走の方面など、奥地の色々な場所の森の中にひっそりと会津人のお墓が散見されているのを実際に見ているのです。会津人は明治初期に未踏の厳しい地の果てまで開拓するために来ていたのだと思い、その凄まじい試練に遭わされていた事実を改めて認識して胸が締め付けられるようになり、とても感慨深かった思い出があります。

そんな中、スネル氏は新たな希望の第三の道として容保公に、ゴールドラッシュに沸くアメリカ・カリフォルニア州で未来を開拓することを提案したのです。金鉱を探しながら、お茶を栽培し、桑の木を植栽して絹の産業を興そうとする案なのです。当時、絹は貴重で高価なものだったで、とても夢のある提案だったのです。その結果、藩士と家族37名が、開拓団に加わりました。その中に、スネル家の子守役の『おけい』も加わっていたのです。実に、この『おけい』その人がアメリカ移民の日本女性第1号となったのです。

明治2年(1869年)5月1日、17歳の『おけい』たちを乗せた米国船「チャイナ号」が、横浜港から米国へと向かました。荒波を越えて20日後の5月20日にサンフランシスコに到着します。当時ゴールドラッシュに湧くカリフォルニア州のいかにもという感じの名称であるエル・ドラド群のゴールド・ヒルという場所に農地を買い取り、「若松コロニー “Wakamatsu Tea and Silk Colony” 」と名付けた日本人村を作ったのです。しかし、残念ながら土地は痩せていたようでお茶と桑の木は育たちませんでした。そして、1848年から始まった熱狂的なゴールドラッシュはすでに1855年ころまでには終焉していたのです。やがて、「若松コロニー」は1年ほどで崩壊してしまいます。

スネル氏は資金調達をするとのことで「若松コロニー」を出ましたが、再び戻ることは無かったということです。藩士たちはスネル氏の言葉を信じ、しばらく待っていましたが、やがて1人2人と「若松コロニー」から出て行きました。子守りの『おけい』と元藩士の桜井松之助のたったの2人だけが残り、スネル氏の帰りを待ち続けました。しかしながら、ほどなく資金が枯渇し「若松コロニー」は解体されてしまいます。

明治3年(1870年)、「若松コロニー」の所有権はビーア・カンプ氏に移り、行くあてもない2人は、カンプ氏の使用人として働くことになりました。利発な『おけい』は、カンプ氏に家族同様に可愛がられ、安らぎの未来が開けるかに見えたのです。しかし・・・・・

明治4年(1871年)、『おけい』は急な高熱に冒され、19歳という若さで死去してしまいました。悲嘆にくれた桜井松之助により、おけいの亡骸は夢を描いた入植地「若松コロニー」の見える丘に埋葬されました。10数年後、桜井松之助など移民の生き残りの人たちによって『おけい』の墓碑が建てられました。松之助も日本に戻ることなく、現地で 67歳の生涯を終えています。この墓標こそが我が幼少時代に家族でお参りした『おけいの墓』だったのです。

大正4年(1915年)、カリフォルニア州のサンフランシスコ市に住んでいた記者の竹田文治郎が、ゴールド・ヒルの丘に日本人の少女の墓があることを知ります。訪れる人もいない墓には、「OKEI」 と刻まれていました。当時、生存していた老農場主ビーア・カンプ氏に聞いて、日本移民団初の女性だと判明しました。地元日系新聞にて特集の記事にしたところ、大きな反響が湧き上がり、世間の知るところとなったのです。

時代は下って、太平洋戦争中には日系人の多くが強制収容され、非人道的に扱われました。戦後に解放された日系人たちは、移民団の先駆者である『おけい』たちの苦難を改めて認識しました。『おけい』の魂が故郷でも休める場所を設けようとの機運が高まり、日系人有志たちにより生まれ故郷の会津若松に墓碑を建てることが決まりました。

昭和32年(1957年)、『おけい』の墓碑が生まれ故郷の背炙山の山頂の丘に、カリフォルニア州ゴールド・ヒルの丘と同じ墓碑が追善建立されました。周りを四季折々の草花に囲まれ、故郷の城下町を眼下に眺めて、安らかに眠っています。いつしか、その場所は 「黄金丘」 と呼ばれるようになりました。これが会津若松の『おけいの墓』建立の背景だという事が判明したのでした。会津若松市の観光案内所で見つけたパンフレットはまさにこのPRだったのです。

そして、昭和44年(1969年)、今度はカリフォルニア州ゴールド・ヒルに立派な「日本移民百周年記念碑」が建立されました。これが建立されたのはすでに私たち家族が帰国した後でした。

以上

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