会員通信

国境を超えた二つの純愛物語がもたらした二つの特産品

作者:SAM日本チャプター会員 伊藤芳康

20年ほど前、私が札幌に駐在していた時代に感動しました二つのロマンチックな国境を超えた純愛物語を披露します。時は明治から大正の時代で、この二つの純愛物語には驚愕の共通点が三つあり、これに気付いた時は我ながら心底驚きました。

一つ目の共通点は、スコットランド人の女性日本人の男性との純愛物なのです。そして二つ目の共通点は、日本人の男性は共にスコットランドへ留学した若者でした。最後の三つ目にして劇的な共通点は、純粋な愛の物語があったが故にそれぞれが後年国民のみなさんが好きになる、ある特産品を日本へもたらしたという背景です。

この純愛無くしては、国民におなじみの大好きな二つの特産品が今日のような形では日本にもたらさせなかったのではないか、と思います。ただし、この純愛には決定的な、劇的な、そして非常にドラマチックな相違がありました。いかにドラマチックであるかというと、片方は純愛が成就したために日本にもたらされたのです。そして、もう片方は純愛が成就しなかったために日本にもたらされたのです。同じ純愛物語でも、愛が成就したか、成就しなかったか、という正反対の違いが実に劇的なのです。

時は大正9年(1920年)、第一次世界大戦が終結したのが大正7年(1918年)なので、ちょうど大正ロマン華やかし頃です。スコットランド・グラスゴー市の登記所に一組の若い男女が結婚のために訪れました。家族の祝福を得られなかった二人は通常の教会結婚の道を閉ざされたため、登記所結婚を選んだのでした。男性は「マサタカ・タケツル」と署名し、女性は「ジェシー・ロベルタ・カウン」と署名しました。この男性こそが後に「日本のウィスキーの父」といわれる当時26歳の竹鶴政孝氏で、女性は生涯の伴侶となった24歳の通称リタさんです。ここで特産品の一つ目が『ウィスキー』であるという事が判明しました。この素晴らしい劇的な題材はNHKが朝ドラで『マッサン』として取り上げたのはご存知の通りです。リタさんを演じた俳優シャロット・ケイト・フォックスには魅了されました。

リタさんはグラスゴーの医者の長女として二人の妹と弟のラムゼイ君と何不自由ない暮らしをしてきました。近くの王立工科大学に在籍しながらウィスキー造りを学んでいる日本人留学生がいるとのうわさを聞きつけたラムゼイ君がその日本人に柔術を習いたいと父親に申し出て、それが実現しました。この留学生が竹鶴さんで、週に何度がカウン家に行き、ラムゼイ君に柔術のけいこをつけました。このようにして必然的に竹鶴さんはリタさんと接するようになり、相思相愛に陥るのです。竹鶴さんはカウン家のクリスマスのパーティーに呼ばれ、食後のデザートの時にみんなでクリスマス・プディングを分けて食べ始めました。スコットランドの慣習として、その家の未婚の女性がプディングの中に「指ぬき」を隠し、それを当てた人が恋人になるというのです。そうしたら、よりによって竹鶴さんのプディングの中からリタさんの「指ぬき」が出てきてしまい、その場は大いに盛り上がりました。

いよいよ4年間の醸造蒸留学の技術と学科の卒業が迫り始めました。そこで竹鶴さんは決意してリタさんにプロポーズしました。そして「もし君が望むなら自分は日本には帰らない」と宣言したら、リタさんは「あなたは日本で本当のウィスキーを造るという大きな夢に生きてきたのでしょう。私もあなたのその夢と共に生き、夢の実現のお手伝いをしたい。」と答えました。クリスマス・パーティーの出来事を運命だと思ったのかもしれません。

リタさんの両親にとってはまさに驚天動地、当然大反対です。教科書にも載っていない極東の野蛮な島国へお嫁に行くなどとんでもないと、両親は失望と不安のあまり猛烈に反対しました。世界の七つの海を制した誇り高き大英帝国の国民であり大正時代であるという時代背景を鑑みると考えられない事だったのではないでしょうか。今の日本の感覚に例えると、娘をアフリカ奥地の聞いたこともないような国の男性の元へ嫁にやるようなものではないでしょうか。このように両親の大反対に遭遇したため、親の承諾が必要な教会結婚ができなくなったのです。やむなく冒頭の如く、登記所結婚せざるをえなかったのでした。これは親の反対を押し切って、半ば勘当の状態で竹鶴さんへの愛を貫いたリタさんの強靭な意志力の賜物でした。

4年間の留学の後、大正9年(1920年)に日本にリタさんと手を携えて帰国した竹鶴さんは自分を留学に送り出してくれた摂津酒造に戻ったものの、同社は既にウィスキー製造計画を白紙撤回していたのです。第一次世界大戦後の不況によって、3年から5年は掛かるウィスキーの製造期間中、資金を寝かしておくだけの余裕が無かったからです。絶望した竹鶴さんは大正11年(1922年)に辞表を提出し浪人生活に入りました。そして日本国内のどこがウィスキー造りにベストの土地かを調査するために全国を旅して回りました。その間の生活はリタさんが帝塚山学院で英語を教えて守ったのです。ちなみに摂津酒造は昭和39年(1964年)、松竹梅で有名な宝酒造株式会社に吸収合併されました。

転機が訪れたのは、突然の寿屋社長の鳥居信治郎氏の訪問でした。鳥居社長は本格的スコッチ・ウィスキーを日本で造る夢を抱いてスコットランドに渡り、ウィスキー製造技師を日本へ招聘しようとしていたのです。鳥居社長はウィスキーの製造の本場で「日本に竹鶴というすばらしい技術者がいるよ」と言われました。これは素晴らしい事を聞いたと小躍り勇んで日本へ戻ってきました。そして幸いにして浪人中の竹鶴さんを探し当てました。

大正12年(1923年)の関東大震災の年に竹鶴さんは寿屋に入社しました。そして、それまで研究を重ねた結果を踏まえてスコットランドとほとんど気候が変わらなくて、ピート炭が採取でき、水が素晴らしい北海道の余市周辺がウィスキー造りにベストであると提案しました。しかし鳥居社長から一大消費地である大阪から遠すぎると一蹴されたため、セコンドベスト山崎の地に醸造所を建設し、ここから国産第一号ウィスキーが誕生しました。

この山崎とは、京都市の南、大阪に行く途中にある場所で、豊臣秀吉と明智光秀が戦った天王山がそびえ、三重県伊賀から流れてくる木津川と、琵琶湖から流れてくる宇治川と、京都の山奥から流れてくる賀茂川(=鴨川)と合流してきた桂川という三つの河川が大合流し、淀川となる交通の要所として栄えた場所です。昔はこの場所にとても風光明媚な巨椋池というのがあり、多くの貴族や有力者たちが憩いの場としていました。筆頭は豊臣秀吉で、伏見城や淀城を河畔に築城しました。しかし、太平洋戦争直前の政府が巨椋池を干拓してしまい、失われました。結局、水質の良いこのエリアが日本のウィスキーの発祥の地となりました。この寿屋が今のサントリーで、この地である「山崎」を冠したウィスキーが現在発売されているのはご存じの通りです。

昭和9年(1934年)に竹鶴さんは14年籍を置いた寿屋を退職して北海道の余市に移住してしまいました。自分の後継者が充分にひとり立ちできるまでに成長した事、そして、どうしてもスコットランドと気候風土や水が日本で最も似通った余市で自分のウィスキーを造りたかったからだと本人が言っております。

余市は旧会津藩士によって開拓され、江戸末期から大正時代にかけて日本海で隆盛したニシン漁の主要港のひとつであり、明治初期には日本で初めて民間の農家がリンゴ栽培に成功しました。その後葡萄なども栽培するようになり、漁業と果樹農業が盛んな地で、民謡ソーラン節発祥地ともいわれています。

竹鶴さんはこの年の7月、余市に大日本果汁株式会社を設立しました。ウィスキーが出来上がるまでの数年間、少なくとも5~6年間を食いつなぐために、余市の周辺の果樹園で取れた、特に売り物にならないリンゴなどの果物類を安く仕入れ、それをジュースにして売り始めたのです。だから大日本果汁という名称なのです。これを短縮したのが日果、つまりニッカです。これがニッカウヰスキーの語源です。

それにしても、現代でも国際結婚というのは大変なことですし、今でも欧米人が通り過ぎると目立つというのに、大正9年(1920年)という時代を考えますと、さぞかし目立ったでしょう。リタさんは家族の反対を押し切っての結婚ということもあり、一度も里帰りすることなく一生涯竹鶴さんを陰で支えたそうです。竹鶴さんは「リタと結婚していなければ、日本で本格的なウィスキーを造ることはできなかった」と断言しております。竹鶴さんは、大恩人である鳥居社長に寿屋を退職した理由を、後継者が充分に育った事と北海道の余市で本格的なウィスキー造りをやりたいと表向き公言していました。

しかし本音のところは、筆者の推測では、一度も故郷のスコットランドへ帰ろうとしなかった愛妻のために日本で一番スコットランドらしい場所の余市を終の棲家にしようと決断したのではないかと確信しました。筆者はアイルランドとイギリスに都合7年駐在しておりましたので、スコットランドは何度か旅しました。そうした実体験に基づく背景の下、実際に余市に行きましたら、先ず視界に飛び込んできたのは工場がスコットランドの古城であるかの如くの城壁で囲まれ、入り口もお城への玄関口の如くでした。内部に足を踏み入れると、そこは別世界でした。すべてがスコットランドなのです。建物も環境もスコットランド風で、夫婦の住まいの建物ももちろん、まさにスコットランドの家そのものでした。

そこではスコットランド風の生活をリタさんは大いにエンジョイされた事と思います。毎日午後3時には故郷の習慣通り、ティータイムを夫婦で楽しみました。そして、リタさんは幼稚園を設立し、教会を作り、余市の発展のために尽くしました。60歳を前後して健康を損ねがちのリタさんに竹鶴さんは、この機会に一緒に一時帰郷を勧めました。しかしリタさんは一言「わたしの飛行機嫌いをご存じなくて?」。

残念ながらリタさんは65歳になった昭和36年(1961年)に病気で亡くなりました。亡くなる直前の昭和34年(1959年)に何十年も会うことのなかった妹のルーシーさんが来日してくれました。当時、彼女は家族の中でただ一人、姉の結婚を祝福してくれたのでした。数十年ぶりに肉親の最愛の妹との再会はさぞかし嬉しかったことでしょう。

リタさんは24歳で来日し、その後結局41年間一度も故郷へは帰らずじまいでした。JR余市駅からニッカウヰスキー北海道工場リタ幼稚園リタ教会、この町出身で日本人初の宇宙飛行士毛利衛さんをたたえた毛利宇宙記念館が徒歩距離にあります。そして余市町役場までの国道229号はリタロードと名付けられ、余市の人々に親しまれています。

さて話はかわり、時はさらに遡り明治10年(1877年)、竹鶴さんより40年以上前の全く同じ場所、つまりスコットランドのグラスゴー市に一人の青年が留学してきました。その名は川田隆吉さんといい、安政3年(1856年)に土佐で生まれ、その土佐閥の伝手により15歳のときに岩崎弥太郎が興した三菱商会に父の川田小一郎氏と共に参画しました。明治7年(1874年)に川田さんは慶応義塾に入学し、その後、明治10年(1877年)に明治政府と三菱商会のバックアップの下、渡英しました。

グラスゴー大学技芸科で造船技術と船舶機械技術を7年間にわたって学びました。その間に、当然といえば当然なのでしょうが、現地女性で19歳のジェニー・イーディさんと恋仲になってしまいました。その時の川田さんは27歳でした。年齢は若干離れていましたが、そのようなことは関係なく、かなり、お互いにものすごく熱々になっていたようで、合計89ものジェニーさんからのラブレターが平成16年(2004年)になって、初めて函館近郊の屋敷の金庫の中で発見されました。この発見のニュースが当時の北海道新聞に大々的に載ったのです。そこで、当時札幌に駐在中だった私はこの純愛物語を知りえたのです。つまり、このラブレターの発見によって川田さんとジェニーさんの純愛の物語が始めて世間にも明らかになったのでした。ラブレターのいずれにも最後にバッテン印の星がいくつも描かれており、それはキッスを表している事が判明しました。平均で8~10個、多い時には12個くらいキスマークがあるそうです。

ウィスキーに関わる竹鶴さんとリタさんの純愛物語はわりと有名でNHK朝ドラのおかげで全国的に知れ渡っておりますが、川田さんとジェニーさんの純愛の物語はほとんど知られておりません。そもそも川田さんご本人が秘していたからです。しかしながら、驚くほど共通点があるのが分かりました。

留学が最終段階になった時、川田さんはジェニーさんに結婚を申し込んで、二人は大いに盛り上がったのですが、巨大な壁にぶつかってしまいました。川田さんは造船という当時最先端の技術導入を担っており、スポンサーの三菱商会、そして帝国海軍、さらには明治政府の期待を一身に背負っておりました。島国日本はイギリスを手本として海洋国家を目指しました。その為には貿易振興及び海軍の充実が必須であり、造船技術は日本にとり必須要綱でした。いわば日本の将来はひとえに川田さんの両肩にかかっていると言っても過言ではない状況でした。従って、川田さんには竹鶴さんのようにグラスゴーに残るというような選択肢はありませんでしたので、川田さんはジェニーさんに自分と一緒に日本へ行ってくれないかと懇願しました。

一方、母一人子一人のそれ程裕福ではない家庭環境の中で、ジェニーさんは年老いた母を一人置いて、実質生き別れの状態で、自分だけ川田さんについて極東に国へ行くことは不可能な選択肢でした。明治の初めの時代です。竹鶴さんの大正時代よりさらにずっと昔です。この点が比較的裕福な家庭に育ち、後継者の長男や二人の妹に囲まれたリタさんとは異なる部分なのだと思います。従って、このころ書かれたラブレターからは星の数が大幅に少なくなっていき、ジェニーさんの苦しみや悲しみが伝わってきて、心に沁みます。

こうして引き裂かれるようにして二人の愛は終了し、川田さんは28歳の時、明治17年(1884年)に帰国し三菱本社に戻り、三菱造船、現在の三菱重工の基礎を築きました。その後、川田さんの父親である川田小一郎氏が明治22年に第3代日銀総裁となり男爵の爵位を授かりました。その父親が亡くなったため、川田さんは爵位を継承して川田男爵となったのです。川田男爵は渋沢栄一氏の要請を受け入れた三菱本社の指示で、明治38年(1905年)に終結した日露戦争後、業績不振となっていた函館ドック再建のため明治39年(1906年)、函館に赴任しました。

函館に赴任して驚愕したのは、函館の気候風土がスコットランドに大変似ていることでした。ジェニーさんのことを思い出し、スコットランドを懐かしみ、若いころの思い出に浸ろうとしました。特に毎日のようにジェニーさんと一緒に食べたジャガイモ料理を忘れることができずにいました。そして、とうとう函館郊外の渡島当別、現在の北斗市から七飯町にかけて9ヘクタールの農場を購入して、自らジャガイモを栽培し始めました。

しかし、採れたジャガイモはいずれもジェニーさんと一緒に食べたあの懐かしいジャガイモではありませんでした。そこで、函館が国際港であることが幸いし、イギリスから次から次へと種芋を輸入して試しました。そして試行錯誤の末、数年かけてやっと毎日ジェニーさんと食べていたジャガイモにたどり着きました。それが、アイリッシュ・カブラーという品種でした。川田男爵はやっと探し当てたジャガイモを栽培しては、自分で料理して食べながらジェニーさんを懐かしがりました。イギリス人やスコットランド人はジャガイモを蒸かして、ベイクドポテトにして、その上にベイクドビーンズやチェダーチーズやコールスローやカレーなどをかけて食べます。いわゆる「ジャケットポテト」という料理です。我々がご飯の上に色々なものをのせて食するのと同じの要領です。推測ですが、たぶん川田男爵もスコットランド風に料理したのでしょう。

その後、川田男爵は自分の農場で大量に採れたジャガイモを近所の農家にお裾分けを始めました。美味しいホクホクとしたジャガイモは大変な人気を呼び、周りの農家でも栽培を始めました。そのジャガイモはアイリッシュ・カブラーという正式名では誰も呼ばず、川田男爵からいただいたジャガイモということで、「男爵さんのおいも」と単に呼ばれる様になり、それが短縮されて、一般にも、そして正式にも「男爵イモ」と呼ばれるようになったのです。これが二番目の日本にもたらされた特産品の「男爵イモ」です。「男爵イモ」はやがて北海道全域で生産されるようになり、北海道を代表する食べ物の一つになりました。

川田男爵は長生きし、92歳になって近くのトラピスト修道院で洗礼を受けています。このトラピスト修道院は娘のテレジアが入り、病気で亡くなった修道院です。川田男爵は94歳で亡くなりますが、人生の最後をキリスト教徒として生きる道を選びました。幕末から戦後までという途方もなく大きな時間と空間を駆け抜けた川田男爵は、前半の実業家人生よりも、後半の55歳からの農事家としての人生で歴史に名を残したということになります。

もし二人が結婚していたら、つまり川田さんが自分の使命を放棄してそのままスコットランドに残るという事態となった場合、日本で男爵イモは生まれなかったでしょう。将来、アイリッシュ・カブラーが輸入されたとしても「男爵イモ」とは命名されなかったでしょう。結局、二人の純愛が実らなかったために、アイリッシュ・カブラーは男爵イモとして日本にもたらされることとなったのです。

このように、共にスコットランドから日本人留学生がもたらしたものでありながら、片やウィスキーリタさんの血の涙の決断のおかげで純愛が成就した事により日本にもたらされました。片や男爵イモジェニーさんの血と涙の決別のために純愛が成就しなかったので日本にもたらされたのでした。

最後に、私も海外留学しておりましたので留学生という意味ではお二方とも私の大先輩ですが、残念ながら私にはこんなに熱い純愛をする機会に恵まれませんでした。留学期間が2年間という短さだったから故と、あえて言い訳しまして筆を置きます。

以上

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