SAM周年活動

SAM日本チャプター創立80周年大会 基調講演

「科学的管理法の父、F.W.テイラーと上野陽一」


– 目次 –
SAMの歴史
科学的管理法の人々
ギルブレスとエマスン
テイラーの苦悩
公聴会のやりとり
テイラーの評価


SAM日本チャプター常任顧問、(学)産業能率大学 最高顧問、
(1988年SAM AWARDテイラーキイ賞受賞)

SAMの歴史

今年は、SAM日本支部の創立80周年の節目にあたりますが、ゆかりの深い名古屋において、大勢の方々にお集まりいただきましたことを心から嬉しく思います。

SAMというこの会は Society for Advancement of Management の頭文字をとったもので、フレデリック・W・テイラーの科学的管理法を基盤にしてアメリカで出発した団体です。

19世紀後半から20世紀の始めにかけて、テイラーはマネジメントの原点とも言える独創的で一貫したマネジメントのシステム、すなわち科学的管理法を提唱しました。テイラーや科学的管理法に触れると「古くさい」、「時代遅れである」、「人間を機械のように扱った」という方もありますが、ピーター・ドラッカーはその著『ポスト資本主義社会』の中でこう言っています。

「ダーウィン、マルクス、フロイトと言えば、
近代社会をつくった人間としてよく引き合いに出される三人組である。
しかし、世界に公正さというものがあるならば、
マルクスの代わりにテイラーを入れるべきである」

(P.F.ドラッカー著『ポスト資本主義社会』、上田惇生 他訳p.82 ダイヤモンド社)

これはテイラーに対する最高の賛辞であると言って良いでしょう。

1915年(大正4年)3月のテイラーの死後、多くの信奉者や弟子たちがその業績を記念するため、「テイラー協会」としてスタートしましたが、昭和11年から現在のSAMに名称変更されました。

1925年(大正14年)にアメリカのテイラー協会は海外で初めて「日本支部」を設立することになりました。おそらく上野陽一の働きかけがあったからだと思います。当時、日本の産業界は、ようやく工業化が軌道に乗り始めたのですが、初期のアメリカと同じように日本でも労使の間で紛争が絶えず、当時の日本政府が憂慮して半官半民の(財)協調会という組織を設立しました。これは労使双方が互いに争うのではなく、互いに協力して共に繁栄するにはどうすれば良いかを研究し、それを実現しようとする団体でした。

ちょうどそのころ、銀行家の星野行則という方がテイラーの科学的管理法を妙訳して学理的事業管理法という名で発行して、日本におけるマネジメント研究の口火を切りました。

当時、同文館という出版社がありました(現在もありますが)。上野はそこの仕事を手伝っていましたが、この出版社に井関十二郎というアメリカ帰りの人がいて同社発行の実業界という雑誌の編集長をしていました。

上野は時々、能率の話をこの雑誌に書いたりしていました。井関編集長は臨時増刊として ”サイエンティフィック マネジメント” 特集を出して世間の注目を集めます。

大正2年、上野は心理研究という雑誌にも「能率増加法の話」を書いています。そのころから彼の興味は心理学、教育学から能率問題に移り始めたようです。

能率(Efficiency)という言葉はアメリカのハリントン・エマスンが使った言葉で、それが日本に伝えられ、科学的管理法より覚え易く使い勝手が良いことから広まったものと思われます。

これを契機に、科学的管理法は一躍、日本でも有名になり、(財)協調会は科学的管理法の導入こそが、労使協調の具体的方策として最も相応しいと考え、日本産業能率研究所を付設することになります。

この方面で研究をしていた上野陽一は研究所の所長を命じられるのですが、それに先立ち、アメリカ、ヨーロッパのマネジメントの現状調査のため、一年間(1921〜2)という長期の出張を命じられました。この旅行でアメリカ、ヨーロッパにおける科学的管理法の理論と実践をつぶさに見る機会を持ち、このときに知りあった海外の学者やコンサルタント、経営者などから大きな影響を受けると同時に、国際的な人脈ができて、大正14年にテイラー協会日本支部を設立することになったのです。

昭和初期にはテイラーの弟子であるカール.G. バース、キング・ハタウエイや能率という名称で科学的な管理を説いたハリントン・エマスン、国際工業会議で来日したギルブレス夫人など多彩な人材が来日して刺激を与えました。上野陽一は昭和4年には、パリの国際マネジメント会議(CIOS)に出席して日本のマネジメントの現状を説明したり、また、日本で初めてのマネジメント視察団を組織してアメリカ、ヨーロッパを視察するなど極めて活発に活動しました。

科学的管理法の人々

1910年(大正10)ごろ、アメリカではテイラーの科学的管理法に対する世間の関心が急激にたかまりました。その反面、自称能率技師(エフェシェンシー エンジニア)と称する人々が次々に名乗りをあげ、「自分に任せてくれればテイラーの半分の費用と日数で科学的管理法を完成させてみせる」と言って、金儲けばかりが目的の怪しげな仕事をするようになりました。

科学的管理法の人々

テイラーはこうした事態が広まることを恐れて「科学的管理法を完全に理解している弟子たちは次の4人である」と言って、名前を上げて公式に発表しました。

カール・G・バース

その一人が カール・G・バース(1860〜1939)です。ノールウェイに生まれ、21歳のときアメリカに移住し、勤務した会社で設計の仕事をしたり、工業学校教師の資格をえてニューヨークで数学、製図を教えたりしていました。その後、友人の紹介でベスレヘム製鋼にいたテイラーに招かれることになります。

当時、テイラーは金属切削の研究をしていましたが、それには複雑な数学的計算を必要としたのでバースの助力が必要でした。

彼は技術者たちを永い間悩ませていた金属削りの数学上の問題を見事に解決した。

その時バースが考案した機械工用の特殊な計算尺は、産業能率大学の上野陽一記念室に保存されています。彼は昭和初期に来日して上野陽一と会っていますが、テイラーの忠実な弟子で科学的管理法の正統派と言われています。

二番目の弟子は ヘンリー・ロレンス・ガント(1861〜1919)です。貧しい家に生まれたガントは奨学金をもらってジョンズホプキンス大学を卒業し、1887年に金属切削研究の助手を勤めるためにミッドベール製鋼に入りテイラーを知ることになります。次第にテイラーの思想全体を理解するようになりましたが、彼の功績の一つはタスクボーナス制という賃金支払方法をベスレヘム製鋼で初めて試みたことです。

テイラーの「率を異にする出来高払制」を下敷きにしていますが、タスクに達しない者に対する支払率をゆるめ、目標の三分の二に達した者から一定の歩合の賞与を与えるという、個人の努力を考慮に入れた評価方法を工夫しました。強い意志の持ち主でしたが、同時に協調的性格を持ち、コンサルティング先の人々にも受け入れられ、予想以上の成績を収めました。

「科学的管理法という一つの型を考えて、全ての工場をその型にはめようとすると、そこにムリができて実績が上がらなくなる。従って科学的管理法のやり方は工場の数だけある、と言って良いくらいである」というのが彼の持論でした。こうした意見の違いが後に、テイラーから彼を引き離す原因になります。

ガントは有名なガントチャートを発明したほか、科学的管理法にさまざまな貢献をしましたが、テイラーの死後一年たった1916年ソースタイン・ヴェブレンとチャールス・ファーガソンの影響を受け、ニュー・マシンという組織をつくってテクノクラートが社会のリーダーシップを握るべきだという考え方のスポークスマンになります。しかし1919年に世を去ると、ニュー・マシンも姿を消します。しかし、この思想は1930年代のテクノクラシー運動につながります。

三番目の モリス・レヴェリン・クック(1872〜1960)はニューヨークのリーハイ大学の機械科を卒業しフィラデルフィアのクランプ造船所で実習を積んだ後、各所の印刷会社の改善に従事しました。ハタウェイと協力して、初めて印刷工場の科学的管理法を実践しました。

1906年、アメリカ機械技師協会(ASME)の会長だったテイラーは彼を起用して会の改組に当たらせます。彼は四人の弟子の中で、最も異色の存在で、次々に新しい分野に進出して、科学的管理法の適応範囲を広げてゆきます。冷血な経営者と一向に働こうとしない非効率的な労働者にうんざりしていたクックは科学的管理法に出会い、それを神の啓示の如く受け止め、その普及に全力を注いだのです。

1912年から15年までフィラデルフィア市の土木局長として働きました。その局は年間予算一千万ドルという大規模な局でしたが彼の指導によって200万ドルを節約することができたのです。科学的管理法に猛烈に反対を続けていた労働組合が次第に理解を示すようになったのはクックの尽力によるところが少なくなかった、と言われています。

私事で恐縮ですが、アメリカ在学中の私は1955年に帰国するに当たって、クックに会うことになっていたのですが、都合で会わずに帰国したことを今になって後悔しています。

四番目の キング・ハタウェイ(1878〜1944)はサンフランシスコに生まれました。バースやガントよりひとまわり若く思慮深い人物としてテイラーから愛され、26歳のときにリンクベルト社に入社してバースの部下となり、科学的管理法の仕事を手伝いました。後にテイバー社の仕事を手伝ったことから同社の副社長になり、科学的管理法の導入に力を尽くして、テイバー社をテイラー・システムの模範工場と言われるまでにそだてあげました。

ハタウェイは1918年、軍の依頼によってフランスに渡り軍需品部の改善に従事しフランス政府から叙勲されました。第一次大戦が終わった後に、世界漫遊の途にのぼり、日本滞在中に上野陽一を知ることになりました。1929年、再び来日し、この年、パリで開かれたCIOS(科学的管理法国際会議)には上野陽一と共に出席しました。

第二次大戦の直前、ハタウェイは上野陽一に手紙を寄せて「われわれ二人が日本とアメリカの最高責任者であれば、両国が開戦寸前のような険悪な状態に陥ることはならなかったのに」と言って嘆きました。

上野は戦争が終わるやいなや、ハタウェイに手紙を書きましたが、折り返し夫人から返事があり、「あなたにとってもショックだと思いますが彼は戦争中に心臓麻痺によって他界しました」とあり、永い付き合いだった親友との別れを嘆いたのでした。

ギルブレスとエマスン

科学的管理法の祖としてのテイラーやテイラーの高弟たちの名前は広く知られるようになりましたが、その他にも多くの貢献をした人たちがいます。その中から二人を選んで紹介することにします。

一人は フランク・B・ギルブレス(1868〜1924)ですが、彼はテイラーの時間研究に対して動作研究で名を売りました。テイラーを尊敬し1915年にテイラーが世を去ったとき、その業績を顕彰するためにテイラー協会を作ろうと言い出した一人です。元々は土木請負の仕事を自営していましたが、中々のアイディアマンで防水地下室を作ったり、特急工事、コンクリート工事などのほか、他の業者には思いつかないことを次々にやるので、たちまち世間の注目を浴びることになりました。

時間研究、動作研究、疲労研究などマネジメント分野の研究にも次第に興味を持つようになり、結局は独立してコンサルタントになります。1885年頃にはレンガを積み上げて家を作ることが流行していましたが、彼はレンガ積みの動作の改善に励み、今までは熟練工でも一日せいぜい千個位しか積めなかったのが、2,700個積めるようにしたのです。この成果はテイラーの知るところとなり、「二人で協力して本を書かないか」という申し入れがありました。この申し入れは当時のギルブレスにとってきわめて光栄なことでしたが、熟慮の結果、断ることにしました。

こんなことからテイラーとの関係はやや疎遠となり科学的管理法派の一人と言われながら、テイラーおよび他の四人とは一線を面し師弟の関係にはなりませんでした。一方、テイラーの側からは別の理由で余り歓迎されなかったとう説もありますが、双方とも自信と競合関係があったのでしょう。ギルブレスにとって「俺は俺」という自負が会って二人の間に、距離を置くようになったようです。

ギルブレスは来日したことがありませんが、上野はシカゴ、NYなどで何回か彼に会っています。最初に会ったのは1621年11月22日お昼に、シカゴでギルブレスに会い、夜の彼の講演会まで、ほぼ一日を共に過ごしています。上野陽一旅日記からその日の様子を引用してみましょう。

ギルブレス

上野は出張でシカゴのホテルに泊まっているギルブレスの部屋をノックしました。彼は「カムイン」を連呼しながら大喜びで握手しました。実際に会ってみると、太った体格の福助のような大きな頭を持った好々爺でした。実際の年齢より老けて見えましたが、冗談を連発しながら日本の漢字問題などの他、よもやまの話をしてくれました。夜は「ギルブレスの超標準化による原価の減少」というテーマによる講演がありました。それに先立って会長が立ち上がり「今日は思いがけず多数の聴衆を得て感謝に耐えない。ギルブレス氏はテイラー氏の後継者であり動作研究の創始者だります。また本会の名誉会員は二人しか居られませんが、その中の一人が ギルブレス夫人(1878〜1972)であり、ギルブレス氏はそのご主人たる栄誉を持たれる方であります」と紹介しました。

ギルブレスは立ち上がって「私はただ今ご紹介いただきましたとおり妻によって名高くされたギルブレスであります」と言ったので、満場爆笑、しばらくは笑い声がおさまりませんでした。ギルブレス夫人は十二人の子供を育て、当時は珍しかった女性の大学卒業生で心理学で博士号をとり、夫ギルブレスを助けてマネジメント分野の人間的側面からの研究や身体不自由な人たちの訓練に取り組み、文字通りギルブレスの業績を側面から支え、彼の評価を高め、戦後、郵便切手に肖像画が載るほどの有名人になりました。

1940年代、十二人の子供の中のフランク・ギルブレス・ジュニアと次女のアーネスティンがその大家族の騒動を面白く書いたのが『一ダースなら安くなる』という本ですが、映画にもなり、ベストセラーにもなりましたので、年配の方にはご存知の方もおられると思います。

次に、ハリントン・エマスン(1853〜1931)ですが、彼は父親の仕事の関係で11歳から23歳までヨーロッパで過ごしました。多くのことに興味と関心をもち、考古学、歴史学、さらには各国語を習得して、教授の資格を得ました。普仏戦争(フランスとプロシヤの戦争)ではプロシヤ軍の規律と能率を目の当たりにし、これが彼の組織論、能率論の元になりました。

帰国後はネブラスカ大学教授となって大学の経営と組織化に独特の腕を振るいました。しかし、大学はエスマンにとって余りにも情的で動きがなく、もっと生きた社会との接触を望み、6年後に大学をやめ、産業界に入りました。それによって、かなりの財産を失いましたが、一方で産業について、少なからず理解を深めることができました。とりわけ、アメリカ産業のムダと非能率とを悟り、その改善に乗り出す決心を固めたのです。

1904年から3年間、サンタフェ鉄道の工場でさまざまな改善を行ったのち、多数の工場を指導して、エマスン・コンサルティング事務所を開いて能率指導を行いました。

テイラーが主としてマネジメントという言葉を使ったのに対してエマスンはエフィシェンシー(能率)という言葉を使いました。

上野陽一とテイラーの弟子たち

ひとつはテイラーの科学的管理との間に一線を引き、自分なりの考え方を能率という言葉で守ろうとしたのでしょう。

時間研究にもとづいて標準時間を決め、時間内に作業を完了したものを100%とすることはテイラーと変わりませんが、67%のところから、少しづつボーナスを与え、90%に達すれば10%の賞を出す点がテイラーと違うところです。この点を超えると能率1%に対して1%の賞与を出すことにしました。先に述べたガントのシステムと似ています。

テイラーはその性格から言って、生まじめで自らに対しても他の人に対しても厳しかったが、エマスンはこの点、やや大まかなところがありました。さまざまな方法によって能率という言葉を世に広めましたが、アメリカでは怪しげな能率技師が続出したため、あまりいい感じを与えなくなり、efficiencyという呼称は次第に使われなくなりました。中々PRが上手で、有名な東部鉄道運賃値上事件で「もし会社が能率的方法を使えば一日に100万ドルの経費を節約することができるだろう」と言ったことがジャーナリズムで報じられたため世間の興味をいやが上にも沸き立たせ、プラスの効果を生みましたが、またその熱狂が科学的管理法反対運動に火をつけてマイナス効果を生んだとも言えないこともありません。エマスンは日本に2回来ており、上野陽一は2回とも行を共にしております。

テイラーの苦悩

テイラーはフィラデルフィアの裕福な弁護士の家庭に生まれました。ハーバード大学を目指して猛勉強をしたため、目を悪くし進学を断念、近隣の小企業に入社しました。その後、ミッドベールという会社で一般作業者として働いてみると、別に努力しなくても他の労働者より数倍も出来高があがります。不思議に思ってよく観察してみると、労働者が意識的に怠けていることがわかりました。彼らの言い分は、一生懸命に働いて出来高を上げると、しばしば賃率がカットされる。また、余り一生懸命にやると他の労働者の仕事を奪い、失業者を出すおそれがある。その防衛策としてみんなが申し合わせて「クビにならない程度の低い水準で仕事をしよう」と考えていることがわかりました。その掟を破ると「欲張りの裏切り者」と言われ追放の憂き目にあうのです。経営者は「もっとやれ」、労働者は「いや、そんなにできない」という労使のトラブルが絶えません。

なぜそういう状態になるのかを探求したテイラーは「1日の公正な仕事高」(A fair day’s work)について誰も分かっていないのが原因だと気づきました。つまり労使双方の誰が見ても公正な一日の仕事高が客観的に決められれば労使間の社会的葛藤は解決できるのではないかとテイラーは考えたのです。

10世紀末から20世紀は「サイエンスの時代」、「分析の時代」と言われますが、テイラーは仕事および仕事のやり方に注目し、様々な自然科学的手法を使って、作業のムダを省いて改善し、一番良いやり方を決めたいと思ったのです。仕事を要素作業に分けて、そのひとつひとつの作業を細かに分析して、ムダなものを省いて統合し、標準作業方法を決める。哲学者デカルトは、「分析を知らない人は、宝物を探すとき、国中を歩いて探す人に似ている」と言いましたが、細かに分けて探してみると、いろいろなムダが発見できることが多いのです。

つぎに、一流の工員に標準化作業をやらせてみて、ストップウオッチで測定し必要なゆとり時間を加えて標準時間を決めます、ところがこの一流の工員とは何かということでテイラーは後で攻めたてられることになりますが、その点については、後でお話することにしましょう。一日の勤務時間は決まっていますから一単位当たりの標準時間で割ってみると「一日の公正な仕事高」が出てきます。

「一日の公正な仕事高」とは言わば一日の標準出来高、言いかえると目標となるわけで、一人ひとりが達成すべき目標を持ち、それに向かって仕事をしてみると結果がでてきます。結果が果たして当初設定した目標どおりにできたかどうかをチェックします。

(1)目標設定、(2)目標達成の指揮指導、(3)結果の測定、
(4)この全プロセスを通じて部下を育成し、(5)仕事を改善し改革する

ということがマネージャーの役割となるのです。科学的管理法派の一人、H.B.メイナードはマネジメントの内容を次のように図示しています。

メイナードのマネジメント・プロセスHarold Bright Maynard, Top Management Handbook P.23(McGraw-Hill 1960年発行)

テイラーはミッドベール、ベツレヘムスチール、ウォータータウン兵器廠、リンクベルト、テイバーなど数多くの会社で働いたり指導をしましたが、労働組合はもちろん、一部の学者、政治家、その他から猛烈な反対、悪評を受けることになります。その主張は「科学的管理法は労働者を搾取する資本家の武器であり労働者を過労させるのみならずストップウォッチによる時間研究は人権を無視するものだ」というのです。

テイラーの本をよく読んでみると彼は労働者を搾取して金儲けをしようとか、資本家だけに奉仕しようとかを考えていなかったことがよくわかります。

当時の労働者の労働はきわめて劣悪な作業環境の中で行われ、心身ともにぼろぼろになるような重荷を背負って働いていたのです。テイラーの願望はドラッカーの言葉を借りれば「生産性の向上を通して労働者に見苦しくない生計を立てさせようとするものだった」のです。

テイラーの考え方を正しく知る上で彼の三つの著書は是非ともお読みくださるようお勧めします。

1. 出来高払制私案 1895年
2. 工場管理法 1903年
3. 科学的管理法の原理 1911年

いずれも上野陽一訳 ”科学的管理法” の名の下にまとめられて産業能率大学出版部から刊行されています。非難の多くは誤解にもとづくものが多く、彼の本を読まずに批評しているものがあるのは残念です。

科学的管理法が一躍有名になったのは1910年〜14年までの5年間でこの間に先に述べた東部鉄道運賃値上げ事件(1910)、ウォータータウン兵器廠事件ならびに下院特別委員会のテイラー査問事件など、世間を騒がせることがいくつも続き、当時ヒューマニストとして人気のあったルイス・ブランダイスはのちに最高裁の偉大なリベラル派判事になりましたが、テイラーを強力に支持しました。

一方、労働組合のサミエル・ゴンバースをはじめ、強力に反対する人たちもあって、そのトラブルは少し大げさに言えば社会を揺り動かすような大事件になったのです。テイラーの死は1915年ですから、晩年の4〜5年は夫人の病気も重なってテイラーにとって、まことに多難な時期だったと言えます。

ウォータータウン兵器廠で時間研究をしようとしたときのことです。これに反対してストライキが起こり、これがこじれて政治問題になりました。ストライキは1週間ほどで収まりましたが、政治問題になったために混乱に拍車がかかりました。

1911年(明治44年)労働組合はテイラー・システムに全面戦争を仕掛けました。議員たちを動かし調査を要求し、下院は特別調査委員会を設置して公聴会が開かれます。1911年10月〜1912年2月(4ヶ月弱)にそれは終わりましたが、テイラーは証人席に座り、4日間で延べ12時間を費やして悪意と敵意に満ちた質問をうけました。言わばつるし上げです。

特別委員会前半でテイラーが力説したにもかかわらず、議員たちは必ずしもテイラーの考え方を理解しません。科学的管理法はスピードアップによって工員を苦しめるのではないか、パイが大きうなっても、依然として分け前についての争いは起こるのではないか。工員と管理者との協力を説くが、それは、あたかも子羊が獅子と寝るようなものではないか。ストップ・ウォッチでの測定値に20〜27%のゆとりをくわえるというのは、どういう科学的根拠があるのか。測定対象に一流の工員を選ぶというが、一流以外の者は、世の中に生存の余地がなくなるのではないか・・・・・・。

この「一流の工員」ということについて、議員とテイラーの間に、面白いやり取りが交わされました。

公聴会のやりとり

議長:「ある種の仕事に対してい一流でない人たちは科学的管理法ではどう処置するのですか」

テイラー:「やめます」

議長:「科学的管理法ではそういう人たちを入れる場所がない?」

テイラー:「歌えるのに歌おうとしない鳥などは科学的管理法に用はありません」

議長:「鳥のことを言っているのではありません」

テイラー:「働けるのに働こうとしないものは科学的管理法では使えません」

議長:「働けるくせに働こうとしない人のことを問題にしているのではありません。あなたの定義に従って、ある仕事に一流でない人をどうするかを問題にしているのです」

テイラー:「どんな人にも一流として働ける仕事があるはずです。荷馬車ウマにも仕事があり、競走馬にも仕事があります。これらの馬はみなそれぞれ、ある仕事に対しては一流なのです」・・・

といった形で延々と議論が続きます。

とどのつまり議会の結論は「科学的管理法は歴史的にまだ日が浅く、労働者の健康や賃金にはたしてどんな影響を及ぼすものかわからない。ゆえにこの問題に対し、特に法案を必要とし、また考慮する必要を認めない」という判定となりました。

組合は今後、戦術を変えて議員を動かし、1915年には「陸海軍予算案中に計上された費用はストップ・ウォッチによる時間研究及び割増支給に使うことを禁ず」という付則を成立させました。

ウォータータウンの経費はこの予算と別だったので、引き続き科学的管理法の研究が続けられましたが、組合は1917年にこの抜け穴をふさぐことに成功し、一方、1913年と14年のAFL(アメリカ労働総同盟)の大会では、科学鐵管理法の拒否を決議しました。

この調査委員会を傍聴していた、ある女性ジャーナリストは「あらゆる種類の誤解や猜疑心、悪意をもった組合指導者、下院議員、調査官からの質問攻めは執拗を極めたものでしたが、テイラーはたった一人でそれに立ち向かいました。」四半期にわたって辛苦をいとわず努力したテイラーにとって悪意に満ちた尋問には、はらわたが煮えくり返る思いだったに違いありません。

事実、証人席での質問と攻撃が終わって、立ち上がったテイラーは、よろよろっとしたと言われています。

テイラーの評価

しかし、今やテイラーと科学的管理法に対する評価は変わっています。

『脱工業化社会の到来』の著者ダニエル・ベルは、『21世紀文化の散歩道』という本の中で次のように述べています。

「昨今では忘れ去られているが。
フレデリック・ウインスロー・テイラーというこの魅惑的な人物が
「近代的」資本主義の形成者であることについては異論はない。
もしある社会的進歩を一人の人間に帰することができるとすれば、
現代生活のルールとして定着している効率の論理は
テイラーに帰されるべきものであろう。
なぜなら、
彼はまさに労働の合理化のための原理と方法を確立したからである。
だがテイラーは技術者を超えた存在であった。
その逸徹した目によって、
あらゆる社会対立の解消を可能にする
科学的管理法を発見したとの自覚を得た彼は、
その意味では一人の予言者であったと言える」。

(ダニエル・ベル 著『21世紀文化の散歩道』、正慶 孝 訳、pp.190~191 ダイヤモンド社)

冒頭に述べたとおりピーター・ドラッカーは、「ダーウィン、マルクス、フロイト」の代わりに「ダーウィン、テイラー、フロイト」にすべきだと言いましたが、P.F.ドラッカーの著書、『マネジメント 上巻』の中で、彼は次のように言っています。

「今日、テイラーを見下して、
彼の時代遅れになった心理学を捨てるのが流行している。
だが、テイラーこそ、作業を当たり前のことと思わないで、
作業をよく眺めて研究した歴史上最初の人である。
彼の作業に対する考え方は、今日依然として基本的な基礎になっている。
テイラーの労働者に対する考え方は、
明らかに19世紀の人であったとはいえ彼の本質的な意図は、
それによって自分が儲けようとか、
あるいは技術的な優位を保とうとかいうことではなく、
社会的な目標から出発している。
ここでいう社会的な目標とは
労働者を心身共に破滅させる辛い労働の重荷から解放したい
という願望である。
彼の願望は、少なくとも今日、
先進諸国においては達成されている。
労働者の生活は向上し、テイラーが考えたような状況になってきた」

(P.F.ドラッカー 著『マネジメント 上巻』、野田一夫・村上恒夫 共訳、p.36 ダイヤモンド社)

と述べています。

渾身の力を振り絞って、マネジメントの研究に力を注ぎ、多くの反対や嫌がらせを受けながら、それにくじけず、初めてマネジメントの理論の枠組みと、それを実践の場に移しうる技法を作り上げたテイラーの偉業は多くの貢献者の中で、ずば抜けて大きいと言わなければなりません。

彼の努力がなければ先進諸国の今日の繁栄はありえず、テイラーが強く望んだ労使双方の繁栄もあり得なかったはずです。

テイラーがその著「科学的管理法」の冒頭で、「マネジメントの最大の目的は従業員の繁栄と共に使用者の最大の繁栄をもたらすことにある」という願望を述べていますが、それが現在ようやく実を結ぼうとしているのです。

最後にお礼を一言申し述べます。愛知県の製造業出荷額は27年間連続日本一という不動の地位にあると伺っています。まさにSAMの理念を実践した地であるということが言えます。そうしたところでこのような記念の大会を開催できることは大変に感慨深いものがございます。

大会の実施に当たりましては、トヨタ自動車名誉会長 豊田章一郎様をはじめ、SAM副会長で大会実行委員長の牧野様、そして名古屋支部の会員の皆様には厚くお礼を申し上げて、私のご挨拶とさせていただきます。

*本稿はSAM日本チャプター創立80周年大会(2005年7月21日 名鉄グランドホテル)において行われた基調講演の内容に一部加筆したものです。

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